東京高等裁判所 昭和45年(ネ)3390号 判決
主文
原判決中控訴人敗訴の部分を取り消す。
被控訴人の請求を棄却する。
訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
事実
控訴代理人は主文同旨の判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。
当事者双方の事実上の陳述及び証拠の関係は、左記のほか原判決事実摘示と同一であるから、これを引用する。
一、被控訴人の陳述の訂正、補足。
1―4<省略>
5 本件保証金は、本件借室の賃貸借契約において、賃料にも比肩すべき重要な要素を構成するものであつて、本件ビルの所有権を取得することによつて、被控訴人に対する右借室の賃貸人たる地位を承継して控訴人は、当然本件保証金返還債務をも承継したものであるが、その理由を更に詳細に述べると次のとおりである。
(一) ビルないしその中の貸室の賃貸借に際し、賃借人が賃貸人に保証金の名義で相当額の金員を差し入れることは、戦後のビル不足時代に始まつたものであつて、当時はこれによつてビル所有者に建築資金を貸与ないし授助する意味を持つていたが、時がたつに従つて、保証金の授受が慣行化し、賃貸人は借入金でビルを建築した場合は勿論、自己資金で建築した場合でも、中古のビルの場合でも保証金の差入れを要求するようになり、またその額も建物の所在地、程度、賃貸階数等によつて一定の基準が定められるに至つた。このように、保証金の授受が慣行化し、その内容も定型化した今日においては、保証金は右にのべた当初の意味を失ない、賃貸人の個人的、内部的事情とは関係のない独立の存在として、賃貸借契約の要素を構成するものである。そうして、このことは被控訴人を含む本件ビルの各室の賃借人と大塚との各賃貸借契約についても同様である。
(二) つぎに、本件借室の賃貸借の期間は五年であり(契約書第二条)、また本件保証金は五年据置き六年目から一〇年間に均等の割合で返還されるが(同第五条)、賃貸借契約が終了したときは右返還期限にかかわらず借室の明渡と同時に返済されることになつている(同第八条)から、結局、本件借室の賃貸期間と本件保証金の返済とは終期を同じくするものであつて、本件保証金は本件賃貸借と運命をともにするものであるといえる。従つて、この点からみても、本件保証金は本件賃貸借の要素を構成するものである。
(三) また、賃貸人がその受け取つた保証金の運用によつて受ける利益は、原判決理由(原判決一〇丁表参照)もいうとおり賃料の一部を構成するものであつて、今日経済界においては、一か月の賃料の額に保証金の運用益(年一割の一二分の一)を加算して賃料の高低を比較するのが常識となつている。従つて、賃貸借契約からはなれた単なる融資金としての保証金は存在しないといつてよいのであつて、このことも、保証金が賃貸借の要素であることの証左である。
(四) 更に、ことを実質的に考えてみるのに、ビルないしその中の室の賃借人を保証金として、多額の金員を(因みに本件借室の場合は、3.3平方メートル一五万円である。)、無担保で、しかも長期間据置いた後名目的な低い利息を付して年賦償還するという。およそ経済人として考えられないような不利な条件の下に差し入れるのは、たとえ売買又は競売によつて所有者が変つても、右賃貸借が借家法第一条によつて対抗力を生ずる以上、保証金返還義務が新所有者に承継されるという安心感があればこそである。しかも、ビルの買主ないし競落人は、所有権を取得するに当たり簡単な調査によつて、保証金の差入れの有無とその額を知り得るのであるから、その返還義務を右の新所有者に負担させても、同人に不測の損害を与えることにはならない。そればかりではなく、本件においては、前記競売事件の記録に保証金の差入れがあることとその額が明示されていたうえに、日本経済新聞になされた公告にも右の点が明記されていたのであるから、控訴人は本件ビルの競落前に本件保証金の存在とその額とを知り得たものである。
(五) このように、本件保証金は本件借室の賃貸借契約の文言からしても、またその実質的な作用からしても、右契約の本来的、実質的な内容をなすものであるから、その返還義務は、本件ビルの所有権の取得に伴ない、賃貸人たる地位を承継した控訴人に当然引きつがれるべきものであり、そのように解することが今日のビルの賃貸借の実態に即応するものである。
二、控訴人の陳述の訂正、補足。
1<省略>
2 本件保証金の差入れに関する契約は、本件借室の賃貸借契約とは別個の金銭消費賃貸借契約にすぎないのであつて、本件保証金は右賃貸借契約の構成要素をなすものではなく、また右保証金は右契約と密接不可分の関係にあるものでもないが、このことを更にくわしく述べると次のとおりである。
(一) 本件保証金の差入れに関する契約は、大塚が本件ビルの建設のため調達した資金の返済にあてるため、本件ビルの各室の賃貸借契約をするに際して、被控訴人を含む各賃借人から金員を借用することを目的としたものであるから、その法律上の性質は、賃貸借契約とは別個の金銭消費貸借である。従つて、敷金が賃料の支払を担保することを目的とするため、賃貸借契約の重要な構成部分をなすのとことなり、保証金は賃貸借契約の構成部分ではないというべきである。だから、本件ビルの新所有者である控訴人は、保証金返還債務について債務引受等特段の合意をしない限り、本件ビルの所有権を取得したということだけで当然に、右債務を承継するものではない。
(二) 大塚と被控訴人との間の契約によれば、本件保証金は五年間据置いたうえ、第六年目から一〇年間で毎年一定の利息を付して均等の割合で返還されることになつていて、本件借室の賃貸借契約が存続中でも(なお、右契約の期間は被控訴人のいうとおり五年であるが契約書第二条第二、第三項により更新されることが予定されている。)、保証金は逐次返却されることが契約当初から予定されているから、保証金は本件賃貸借と必ずしも運命をともにするものではない。この点からみても、本件保証金に関する契約と本件賃貸借契約とは別個のものであることが明らかである。
(三) 被控訴人はなお、(原判決理由も同様であるが)、賃貸人が保証金の運用によつて受ける利益は賃料の一部を構成し、保証金の収受によつて賃貸人は一方的に利益を受けると主張するが、賃借人とてもビルに入居することにより場所的利益を受けるのであつて、右の保証金の運用益は、右の場所的利益の対価であるいわゆる権利金にかわるものともいえる、このように、保証金差入れについては賃借人もまた利益を享受しているのであるから、保証金契約が賃貸人のみに一方的に利益を与えるものとみることは当を得ないし、保証金の運用益は賃料の一部を構成するものではない。
(四) 元来、ビル又はその室の賃借人は、賃貸人であるビル所有者、特にその資力を信頼して保証金を差し入れるものであるから、保証金は当初の賃借人の当初の賃貸人に対する融資金と解するのが当事者の意思に合致するものである。被控訴人のいうように、ビルの所有権取得にともない新所有者が当然に保証金返還義務を承継すると解することは、旧所有者すなわち旧賃貸人の無資力の危険を、一方的に新所有者に負担させるものであつて、当事者の意思に背致するうえに、公平の観念にも反する。なお、被控訴人は右の危険は予測可能であり、新所有者はこの危険を回避するために努めるべきであると主張するが、このような主張は経験則に反し当を得ない。
(五) 以上のとおり、本件保証金は敷金とちがつて、本件借室の賃貸借契約の構成部分ではなく、また保証金と賃貸借とは密接不可分の関係にもないのであるから、本件賃貸借契約の目的物件である本件ビルの所有権を取得した控訴人に対する本件保証金返還義務を当然に承継する理由はない。
三、新しい証拠<省略>
理由
一、被控訴人主張の請求原因1(一)及び(二)記載の事実は当事者間に争いがなく、また、控訴人が昭和四三年五月九日東京地方裁判所昭和四二年(ケ)第二三二号不動産競売事件において、本件ビルを六、三〇〇万円で競落し、同年六月五日右代金を支払つて所有権を取得し、同年六月一一日その旨の登記を経由したことは控訴人において明らかに争わないからこれを自白したものと看做すこととする。
二、被控人は、まず、控訴人は本件ビルの所有権の取得に伴ない本件貸室の賃貸人たる地位を承継したので、同時に被控訴人に対する本件保証金返還債務をも当然承継したと主張する。
1そこで、本件保証金の差入れに関する事実関係を検討してみるのに、右一、認定の事実ならびに成立に争いのない乙第一号証、原審証人大塚富次の証言及び弁論の全趣旨によると、次のとおり認められ、これに反する証拠はない。
(一) 本件保証金の差入れに関する事項は、本件借室の賃貸借契約書(乙第一号証)の第五条から第八条までに定められており、保証金に関する約定は右賃貸借契約と称される契約条項の一部をなす体裁となつている。
(二) 右各条項によると、本件保証金は総額八〇二万五、〇〇〇円であつて(第五条第一項。ちなみに、右は賃料月額二三万〇、〇五〇円の約三四倍以上である。)、その二割に当たる金額を契約成立の日(昭和三八年六月一五日)に、残額を契約成立の日から半月後(昭和三八年七月一日)に賃貸人に預託すべきものとされ、なお右総額のうち賃料の六か月分にあたる一三八万〇、三〇〇円は、敷金として納付すべきものとされている(第七条第一項)。
右の敷金には利息をつけないことのほか、賃借人である被控人が賃料の支払を遅滞し、又は損害賠償その他本件賃貸借契約に基づき賃貸人である大塚に対し金銭債務を負担したときは、賃貸人は右債務の支払を請求するか、敷金の全部又は一部をその支払に充当するかを選択することができ、後者を選択したときは、被控訴人に対し何らの催告をしないでこれをすることができること及びこの場合賃借人は充当の通知を受けた日から五日以内に前記の額に達するよう敷金を補充すべきことが定められており(第七条第二ないし第四項)、一方、賃貸人である大塚は前記保証金から右の敷金を除いた残余六六四万四、七〇〇円(これが本件係争のものである。以下保証金というときは、特にことわらない限り、これを指す。)を、本件賃貸借契約成立のときから五年間はそのまゝ据置き、第六年目から、毎年日歩五厘の利息を加えて、一〇年間で毎年平均等の割合で被控訴人に返済すべきものとされている(第五条第二、第三項、なお、この返済の約定は当事者間に争いがない。)。
そうして、本件賃貸借の期間満了の際、被控訴人が本件借室の明渡を完了し、かつ右契約上の債務を完済したときは、大塚は被控訴人に前記敷金、保証金を直ちに返還すべきこととなつている(第八条(一))。ところで、賃借人である被控訴人は、(イ)本件賃貸借契約成立のときから二年間は止むを得ない事情がない限り右契約を解約することができず、また(ロ)右二年経過後は正当な理由がある限り右契約を解約することができるが、右(ロ)の場合には敷金及び保証金は、右の期間満了の際と同様の要件の下に直ちに返還されるのに対して、右(イ)の場合には、大塚は、敷金は右同様直ちに返還すべきであるが、保証金は、本件貸室の次の入居者が決定し、その者から保証金が差し入れられるまで六か月を限つてその返還を留保できることになつている(第八条(二)ないし(七))。
(三) 大塚は、被控訴人を含む本件ビルの室の賃借人全員から、被控訴人に対すると同様の約定の下に、保証金を収受したのであるが、それは本件ビル建築のため他から借入れした金員の返済にあてることを主な目的としたものであつた。
2、右認定の事実関係を前提として、本件保証金返還債務が控訴人に承継さるべきものであるかどうかを考察する。
借家法第一条は「建物ノ賃貸借ハ……建物ノ引渡アリタルトキハ爾後其ノ建物ニ付物権ヲ取得シタル者ニ対シ其ノ効力ヲ生ス」と定めているので、賃貸借の目的となつた(引渡ずみの)建物の所有権が移転された場合、建物賃貸借契約の不可欠の内容をなす権利義務関係(賃貸人の建物を使用させる義務、賃借人の賃料支払い義務等賃貸借固有の内容をなす権利義務関係)が新所有者との間に承継されるものと解すべきことは当然である。ところで、敷金の差入れに関する権利義務関係は、右にいう建物賃貸借契約の不可欠の内容をなすものではないが、その差入れは、もつぱら、建物賃貸借契約に基づき賃借人が賃貸人に対し負担する賃料その他の債務を担保する趣旨において行なわれるものであつて、敷金に関する契約関係は、建物賃貸借に関する契約関係を離れて、独立にその存在意義を有するものではない。従つて、建物賃貸借契約関係が建物の所有権移転により新所有者との間に承継される以上、これに附従して、敷金に関する権利義務関係もまた、新所有者との間に承継されるものと解するのが相当であり、従来、かように解されて来たところである。ところが、本件においては、右にいう敷金の性質をもつ金員のほかに、保証金なるものが差し入れられていることは、前認定のとおりである。そして、前認定のような保証金差入れの趣旨、目的及び約定内容によれば、保証金に関する権利義務関係は、その根本の性格においては、賃貸人大塚に対する消費貸借上の権利義務関係にほかならず、これが本件借室の賃貸借契約の固有、不可欠の内容をなすものでないのはもとより、敷金に関する権利義務関係のように、賃貸借契約固有の権利義務関係に対し随従的性格を有するものとも認め難い。もつとも、前認定の約定内容によれば、保証金の差入れに関する権利義務関係は、本件「賃貸借契約」条項の一部にとり入れられており、その発生、存続及び消滅のいずれについても本件借室の賃貸借契約と密接に結び付けられていることは明らかであるが、それは、保証金授受の趣旨(借室の賃貸を条件に賃貸人に対しビル建築資金を融通するとの趣旨)にそうよう、特別の合意により、そう定めたというにとどまり、保証金授受に関する権利義務関係が、借室の賃貸借契約の固有の内容をなすことによるものでないのはもとより、これに対し随従的性格を有することによるものではない。従つてまた、かように特別の合意によつて結び付けられていることによつて、本来、性質を異にする二つの契約関係(賃貸借契約と消費貸借契約)が、一個の不可分の契約関係をなすものと解することも困難である。それ故、建物賃借人の保護を目的とする借家法一条の解釈として、本来消費貸借上の契約関係にほかならない保証金授受に関する権利義務関係が、当然に(賃貸人、賃借人及び建物の譲受人の三者の特別の合意によらないで)、建物の譲受人(競落による建物所有権の取得者)との間に承継されると解することは、現行法の解釈の域を超えるものとして、許されないところといわねばならない。(民訴法六五八条三号も、以上の見解を前提とするものと解される。)
ところで被控訴人は種々論拠を挙げて、本件保証金は本件賃貸借契約の構成要素であると主張する。そのうち、まず、一般にビル等の賃貸借契約において保証金の収受が慣行化し、かつその内容が定型化しているとの点であるが、仮りに被控訴人主張のような事情があるとしても、前記のとおり保証金に関する契約を、賃貸借契約とは別個のものと観念すべき以上、それは単に保証金の収受に関する契約が慣行化し、かつその内容が定型化したにすぎないのであつて、これを以て被控人の主張の論拠とすることはできない。また、被控訴人は保証金の運用益は、実質上賃料の一部を構成しているというが、ビル等の賃借人が賃貸人に保証金として多額の金員を貸与し、その弁済について期限を猶予し、かつ分割弁済の利益をも与えるのは、その反面においてビル等の場所的ないし営業上の利益を期待しているのが通例であつて、この両者は相互に対価関係をなすものというべきであるから、保証金は常に一方当事者である賃貸人の利益にのみ帰するものとは速断できないし、また経済的な評価は別として、少くとも法律的には保証金ないしその運用益が当然賃料の一部となるものともいえない。さらに、前記認定のとおり本件保証金の返還時期と本件賃貸借契約の終了時期が一応一致していることは被控訴人のいうとおりである(前記認定のとおり本件においては、この趣旨は、約定の五年の賃貸期間の途中で本件賃貸借が終了する場合にも、貫かれている。)、が、これは、右述べたような意味での対価関係の存在ないしは本件保証金授受の趣旨、目的を考えればむしろ当然のことというべきであり、これを以て被控訴人のいうように本件保証金が本件賃貸借契約の要素であることの証左とすることはできない。被控訴人の挙げるその他の論拠も、本件保証金授受に関する権利義務関係をもつて、基本において、消費貸借関係にほかならないと解すべきものである以上、その返還義務が建物譲受人(競落による所有権取得者)との間に当然承継されると解すべきことの根拠とはなりえないものである。
3なお、ビル等の賃貸に際して保証金を収受することが慣行化するに伴なつて、右2に述べた新所有者が賃貸人たる地位を承継するとともに保証金返還義務も当然に承継するという慣習ないし慣習法が形成されているならば、被控訴人はこれに依拠して控訴人に対し、本件保証金の返還を請求することができる筋合いであるが、被控訴人が本件においてその趣旨の主張をしているものとは必ずしも認め難いうえに、もとよりその立証もない。もつとも、成立に争いのない甲第七号証によると本件ビルの競売期日の公告(但し、東京都において発行される日本経済新聞に掲載のもの)には、前記敷金のほか本件保証金に関する事項の記載があることが認められるが、右は競売においてはその目的不動産に関する実情は出来るだけ詳細かつ正確に知らせて競買人とならうとする者の参考に資せんとする競売裁判所の配慮に出たものであると解するのが相当であるから、右の一事で、今日すでに、前記慣習が定着し、ないしは前記の慣習法が形成されていることの証左とすることはできない。従つて、この点から被控訴人の主張を認めることもできない。
4以上のとおり、どのような観点からしても、本件ビルの所有権取得に伴ない被控訴人に対し賃貸人たる地位を承継した控訴人が、本件保証金返還義務をも承継したと認めることはできないから、これを前提とする被控訴人の請求はその余の点を更に立入つて判断するまでもなく、理由がないものというべきである。
三、<省略>
四、以上のとおり、控訴人に対し本件保証金の返還を求める被控訴人の請求はすべて理由がないから、棄却すべきものである。
従つて、叙上と趣旨を異にし、被控訴人の請求の一部を認容した原判決は不当であるから、民訴法第三八六条によりこれを取り消すべきものである。
よつて、訴訟費用の負担につき同法第九六条、第八九条を適用のうえ、主文のとおり判決する。
(白石健三 岡松行雄 川上泉)